長いので格納。読みたい人はどうぞ。
「もう、やめなさい。
才能とかそういう以前の話だ。
このプロジェクトそのものがまちがっているがゆえに、このスケッチが性向しないんだ。
そもそも、あんたはオタクというものが何か、まったくわかっていない」
「村上隆 『芸術起業論』 第三章 芸術の価値を生みだす訓練 六八〇〇万円の源は「門前払い」だった」
と村上隆は海洋堂から言われたわけですが、多分これが一般的なオタクが村上隆に対して持っている反感をよく表わしている台詞ではないでしょうか。
もう少し整理するためにmojixさんの記事から引用します。
1)現代美術の作家が、われわれのオタクネタを「利用」している。「門外漢」「ヨソモノ」がムカつく。
2)それがとんでもない高値で取引されている。「金持ち」「商売」がムカつく。
3)なぜそれに高値がつき、現代美術として評価されるかが理解できない。「わからない」ことがムカつく。
村上隆に「ムカつく」のはなぜか - Zopeジャンキー日記
つまり、「オタクというものが何か、まったくわかっていない」と
思われている村上隆が現代アートの世界でオタクネタを利用してぼろ儲けしてるのがむかつくし、またそれを理解できないのがむかつくというわけです。
ここで「思われている」を強調したのはアニメ夜話での村上隆の発言から斟酌するに、オタクとしてそれほどヌルい人だとは僕には思えないからです。
さて、最近また村上隆バッシングが起こったというのはヴェルサイユ宮殿での作品展でのフランスの右翼による批判を受けて日本でも局所的にバッシングが起こりました。(
痛いニュース(ノ∀`) : 「歴史遺産への冒涜だ!」 ベルサイユ宮殿での村上隆氏の作品展に反対運動起こる…仏 - ライブドアブログ)
インターネット上での議論は周期的に同じネタが出てくる、まさにこの話題定期的に見るNE状態なのですが、今回のインターネット上での村上隆バッシングは少し新しい局面を迎えたのではないかと思います。
叩かれるポイント:1、村上フィギュアはパクリ。2、フィギュアとしての魅力が無い。3、日本のアートとして紹介されるの恥ずかしい。4、これならもっといいフィギュア造形作品があるはず=外人騙してる。この辺ですな。ココの問題でARTの定義が私側(現代美術業界)と批判側ですれ違ってる。
Togetter - 「なぜ村上隆がヲタクに叩かれるのか」
このように自ら批判点を洗い出して答えていっています。
多分、村上隆がよく分からないオタクフィギュアで海外の金持ちからぼろ儲けしてるぐらいのアングルだったら良かったんでしょうが(ここももう少し複雑なレイヤーがあるのですが後述)、本人曰く批判点4に対して
オタクの芸術がなかなか外国に輸出出来ていないのは、内包するグラマーの複雑さを解析するテクストの不足です。マンガ、萌えアニメ等ハイコンテクストすぎて外人には意味不明。噛み砕くプロセスが絶対に必要。最先端でアニオタやってる人間には温いでしょうが役割の違いを理解して欲しい。(4)
Togetter - 「なぜ村上隆がヲタクに叩かれるのか」
ということであり、氏の活動は
俺は日本以外の人たちに日本のオタクの文化の翻訳作業をしてゆく心構えがある。オタク最先端を開発して行く人間との役割の違いを理解して欲しいです。文化には何層ものレイアーが必要なんです。オタクの人々の世代間闘争も最近では散見されてきましたが、理解のキャパシティの狭さを問題視はしないね。
Togetter - 「なぜ村上隆がヲタクに叩かれるのか」
「なぜ村上隆がヲタクに叩かれるのか」のまとめのなかで村上隆氏は仰られていますが、日本のオタク文化を海外資本に買い叩かれたりするのではなく、日本のオタク文化として然るべきマネタイズする方法を確立するためにそれを理解させる土壌として海外にオタク文化の翻訳作業をしているということでしょう。
ここで新たな批判点が噴出しました。金持ち相手にぼろ儲けしているのではなく、オタク文化のために翻訳しているという点です。
それは、村上隆氏の代表的なアートである『
HIROPON』や『
My Lonesome CowBoy』はオタク文化を理解させるための翻訳として最適かということです。
冒頭に引用した言葉ともリンクしますが、オタク的な感性から外れたフィギュアをオタク文化の代表的なものとして輸出するな、という感情でまとめられると思います。
ここで「村上隆がよく分からないオタクフィギュアで海外の金持ちからぼろ儲けしてるぐらいのアングル」だがもう少し複雑なレイヤーがあると言ったことに触れます。
その複雑さはそれを見る鑑賞者にとっても複雑な感情を生じさせますし、なぜこのようなフィギュアが海外で受容されるかというコンテクストの問題でもあります。ひいては村上隆氏の戦略を理解するためにも必要なレイヤーであると言えます。
〈少女〉幻想記録では大塚英志氏の『
「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』と浅田彰氏が批評空間で書いた【かくも幼稚なる「現代美術」】を引用しつつ村上隆のポストモダン・オリエンタリズム的な創作を批判し、彦坂尚嘉氏は「
大浦信行と村上隆/オリエンタリズムをめぐって(校正2):彦坂尚嘉の《第41次元》アート:So-netブログ」のなかで現代アートにおいて非ヨーロッパが現代アートとして認められるための文脈としてセリフオリエンタリズムの戦略を指摘しています。
つまり、非ヨーロッパ圏の芸術が現代アートとして認められるには、セリフオリエンタリズムとして一旦西洋を通して日本を見ることでしか参入できず、日本においてそれは原爆的な自虐史観にもつながってしまいがちな戦後に契機を見出さねばならないということになります。
自国民としては自国の文化を西洋の視線を介し彎曲した形で見せられることを自然と受け入れることは難しいように思います。しかし一方で現代アートのゲームに参加しようとするならば必然的に取らざるを得ない戦略であるとも言えます。
従って、村上隆氏が「
現代美術業界にだってそういった集積とハイコンテクスト」があるといい、また東浩紀氏が「
「オタクもハイコンテクストなら美術もハイコンテクストだ」というのはその通りだと思う」というのは全くその通りだと思います。
そして、
言語ゲームである現代美術のなかで勝っている村上隆氏は全く戦略的に正しくて、この文脈を理解してない者の批判というのは妥当とは言えません。
とは言え、村上隆氏の作業が正当な翻訳なのか誤訳なのかというシコリが残っている人は多いでしょうし――言語ゲームである現代アートの世界で勝っているという事実から考えて誤訳ではないと思いますが、これもまた西洋における「翻訳」の妥当性なので自国民から見てどうかという問題があります。しかしそれもまた一つの言語ゲームでしかないのですが……――ともかく「
異質で、白痴的で、漫画の精神しかない、愚劣な、歌麿的な、巨大な性器を持つ、浮世絵の枕絵的な日本人像」としてのフィギュアがなぜ翻訳作業として成立しているのかというのがプレゼンテーションや立ち位置だけで成立するものではないんじゃないかと思い、このエントリを書きました(現代アートは人や場を扱うので、まぁそれ自体で成立していると言ってもいいのですが)。
ようやく本題まで辿りついた。
言語ゲームでしかない現代アートのなかではオタク的ポップカルチャーをセルフオリエンタリズムとして加工しプレゼンテーションすることが正解だとして、
フィギュアを造るにしても他にもっとオタクの本質的なフィギュアがあるんじゃないかという批判において、ならばフィギュアとはなんぞやということを現代アートと絡めて少し考えてみようということです。
(ちなみに村上隆氏を批判した回のギャラリーフェイクのオチは、フジタがオタク業界で本物のオタクが造ったフィギュアの作品展を開いて「いつの日か、世界中のディーラーがおまえさんの門前に市をなすんだ」と言うものですが、作品展はオタクしか来てなかったりするので……)
さて、僕は別に美大生でもなければ、美術に明るい人間でもないので、美術手帖2008年8月号
岡崎乾二郎監修の現代アート基礎演習を頼りにフィギュア≒彫刻のあり方を考えていきます。
そのなかで「STUDY;2 彫刻とは事物から事物への憑依だ!」と書かれています。
どういうことでしょうか。順を追って考えていきましょう。
まず、人は対象をリアルに感じると、かえって対象との間に隔たりというか、豊かな感覚の厚みを感じます。反対に言えば、実際に感じるさまざまな感覚のギャップが、かえって対象をしっかり把握することに繋がるということでもあります。その「両者が完全に一致しないことこそ、彫刻家の欲望、思考を促していた」のであり、それが彫刻の歴史ということです。
また、「彫刻とは事物による事物のミメーシス、つまり物真似である」と書かれています。
これは対象との隔たりや感覚を、彫刻という事物で表わそうとする欲望から考えれば最もなことです。
では、ミメーシスとは一体どういうものなのでしょうか。「物真似である」ということとは。
彫刻におけるミメーシスの方法は、第一に「外形を写す」方法。第二に「記号/徴候を付加する」方法。第三に「ものの組成の過程/成り立ちを模倣する」方法の三つです。
第一では異なった素材の違いは表わせません。第二では、比率で小さくできない部分、省かなければならない部分が出来るが、省くと認知できる記号的要素がなくなるため省くことができません。
そのためこの第三の方法――事物を作り出している潜在的な構造をそのまま模倣すること――こそがミメーシスとして重要な点です。
その
ミメーシス=物真似の核心は、物事から、それが何であるのかX=謎を排して、その成り立ち、いわば文法だけ写し取ろうとすることです。
ミメーシスの対象は自然物もあれば人工物もあります。しかし、自然物と言えども観察者の目を通してしか把握できないため、ある種の必然性を読み取ってしまいます。
そのため「彫刻とは、何のためにあるのか、誰がつくったかわからないけれど、それがそのようにできた必然性は感じられる事物であるということ」が求められ、彫刻は<これはXである>という文章に喩えられます。
X=謎はこの文章があるという事実だけで既にはっきりしていて、ここで「重要なのはXではなく、その成り立ち、組成を移し替えること」です。
「AをBに写しかえ、ひとたび「そっくり」ってのが成立すると、AでもBでもないもの、<これはXである>という状態に達する」ということ。Xが何かわからなくても、その必然性だけは、いつまでも分かるもの。それが彫刻です。
ミメーシスの核心が文法だけ写し取ろうとすることであり、<これはXである>という性質から考えても、村上隆の『
HIROPON』や『
My Lonesome CowBoy』や他のアートにしてもそうですが、翻訳と理解するのは妥当なのではないでしょうか。
ここで結論。
つまり、彫刻はミメーシスであり、その核心から考えて村上隆の活動は誤訳ではなく翻訳と見るべきではないのか。
オタクのコンテクストや現代アートのコンテクストだけで言語ゲームを繰り広げるのではなく、そもそもフィギュア、彫刻の本質的な性格から一度考えてみたほうがいいのではないかと言うことです。
芸術起業論読み返そうかと思ったけど時間がなくてスルー。
- 2010/09/13(月) 19:23:49|
- サブカル
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